グループの歴史
60年を超える日々が、いつも順風満帆のわけがない。
歴史は、自力で拓いた未来の積み重ねだ。
光グループは、戦後の復興期に京都の道づくりをするべく生まれ、時代の好機を逃さず事業展開・成長してきました。
60年の間には、華やかな実績も、日本に先駆けた取り組みも、失敗もありました。
60年の歴史は、先輩たちの挑戦の軌跡です。先輩たちが自力で切り拓いた未来こそが今。
この先の歴史は、社員が、自分たちの手で創るものです。
創業前夜 〜光工業の舗装のルーツ~
- 創業者 喜多川光三郎
- 昭和天皇即位の礼(1928年)
創業者 喜多川光三郎は、1897年(明治30年)、烏丸御池にあった生糸卸問屋の次男として生まれました。早稲田大学の理工学部採鉱冶金学科を卒業したのち、北海道の夕張炭鉱を経て、日本石油株式会社道路部(現在の株式会社NIPPOの前身)に入社。京都の支店長を務めていた昭和初頭、昭和天皇の御大典の際には、御所から京都駅までの舗装に責任者として携わりました。舗装がまだ珍しく、プラントもブルドーザーもない、すべてが手作業の時代です。畳一畳くらいの鉄板に石や砂を載せて下から熱し、一斗缶でアスファルトを流し込んでこねていたため、わずか1~2mずつしか舗装が進まなかったとか。光三郎は日本の舗装の草分けとして歩んできたのです。
1955-1971
1955-1971
当時の工事風景・実績
1972-1984
1972-1984
滋賀に根を張り、エリアを拡大
1978年、大阪ガス様から、滋賀県全域のへのガス供給管埋設の復旧工事をご依頼いただいたことを機に、光舗道株式会社滋賀支店を分社化、「光舗道建設株式会社」として法人化しました。自治体の大規模事業を主事業とする一方で、“点々舗装”と呼ばれる民間の小規模工事も率先して受けてきたことがきっかけでした。また、滋賀支店の本社化は、滋賀での公共事業を拡大するためにも不可欠のものでした。当時、「支店」のレベルで県や市の仕事を受けることはほぼ不可能。「光舗道建設株式会社」の設立は滋賀県に根を張る大きな一歩ともなったのです。
アスファルト廃材のリサイクルを実用化
光舗道がアスファルト廃材の再生について研究し始めたのは、1977〜78年ごろ。まだ建設廃材が埋立て処分されていた時代です。
複雑な混合物であるアスファルト合材は加熱や酸化によって化学変化を起こし、役目を終えたあとも分解再生することは困難です。しかも当時はわからないことが多く、思うような結果を得られずに試行錯誤を繰り返していました。
やがて各地でちらほらと廃材利用の動きが出始めたものの、砕いて路盤材にしたり、太鼓ミキサーの中で熱したり、お湯で温めたりと、いずれも幼稚なものばかりでした。光舗道が実用的なリサイクル方法を見つけ合同プラントを立ち上げたことにより、京都は全国に先駆けてアスファルト廃材の再利用をスタートさせることになりました。
1985-1995
1985-1995
1996-2016
1996-2016